ダヴィンチの旅行写真集
2024-02-29T10:36:32+09:00
mda-vinci
海外旅行・国内旅行の時に撮影したコメント付き写真集
Excite Blog
2024年1月 広島ぶらり旅(その4)
http://mdavinci.exblog.jp/33267342/
2024-02-23T17:09:00+09:00
2024-02-25T13:00:14+09:00
2024-02-23T17:09:57+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
1月8日(月・成人の日) 本日は、ホテル周辺を散策します。
夜明けの風景街角に置かれた「平和の像」広島アンデルセン
全国で展開するベーカリーチェーン「アンデルセン」の1号店で「旗艦店」と呼ばれています。繁華街である広島本通り商店街にあり、その姿は威風堂々としています。原爆投下時点では、帝国銀行広島支店として営業されていましたが、爆心地に近くほとんどの建物が全壊した中で、たまたま広島県産業奨励館(原爆ドーム)とともに全壊を免れたそうです。その後、帝国銀行広島支店は修復され、1950年には銀行業務を再開しました。1967年、この建物を購入し「広島アンデルセン」の1号店として営業を開始したそうです。耐震補強をしながらこのビルを使い続けましたが、限界と判断し建替えることになりました。2020年、帝国銀行広島支店の意匠を踏襲して、新生「アンデルセン」がオープンしました。外壁と窓枠の一部はそのまま再利用されています。被爆した「帝国銀行広島支店」 爆心地から約360mに位置し、原爆ドーム同様、全壊は免れていました。
新生「アンデルセン」の外壁・窓枠 建替え工事に伴う被爆外壁の保存・再現状況
壁にはめ込まれたアンデルセンの人魚姫
アンデルセンの庭で見つけた赤い葉アンデルセンの直ぐ近くに袋町小学校があり、その一角に被爆状況を伝える建物が「平和資料館」として公開されていました。
現在の袋町小学校
袋町小学校「平和資料館」被爆直後の「袋町国民学校」 原爆により木造校舎は全壊・全焼しましたが、鉄筋コンクリート造3階建の西校舎は外形のみを残し全焼しました。壁に残された安否を尋ねる伝言 その時の生々しい状況が伝わってきます。被爆後「建物等の遺構」展示資料被爆日の袋町国民学校地下室の奇跡袋町小学校の沿革証言・手記より大量の医薬品を届けたジュノー博士
被爆後の「袋町国民学校」周辺写真 鉄筋コンクリートの建物は、外形のみ残っているのが分かります。因みに、日本銀行、明治生命、三和銀行などが残っています。
館内風景旧日本銀行広島支店
被爆直後の日本銀行広島支店
外観風景
内部風景
旧日本銀行広島支店を見学した後、直ぐ近くにある「頼山陽史跡資料館」を訪れました。
頼山陽史跡資料館 「頼山陽先生日本外史著述宅跡」の石碑が目に付きました。
頼山陽像
屋敷内で見つけた樹木の造形国の史跡「頼山陽居室」
頼山陽は、ここで育ち、漢学を修めました。寛政九年(1797年)、18歳の時に江戸に遊学し、1年後帰藩しましたが、同12年には志を立てて脱藩し、京都で福井新九郎方に身を寄せました。頼家では山陽を連れ戻し、邸内の離れの一室に幽閉し、その期間は5年に及んだそうです。この離れが現在のこの居室です。この間、山陽は著述に専念し、晩年に完成する「日本外史」の草稿を仕上げたといわれています。昭和33年、広島県が復元した居室を含む30余坪の地域は、国の史跡に指定されています。
頼山陽の関係資料江戸遊学から幽閉までの記述
「日本外史」 頼山陽と日本外史に関する説明文(1~5)のうち、その1「日本外史とは」とその5「日本外史の果たした役割」の頼山陽の居室および資料館を見学した後、原爆ドームのある元安川河岸に戻ってきました。
元安川河岸風景
原爆ドームと宮島行き連絡船乗場ヒロシマの碑平和祈念碑
元安橋を渡った橋の袂にある燃料会館に向いました。
元安橋でのスナップ燃料会館
この建物は、昭和4年(1929年)、大正屋呉服店として完成しました。戦争が激化すると県燃料配給統制組合に買収されました。原子爆弾が炸裂した時、コンクリートの屋根は大破、内部も破壊炎上し、地下室にいて奇跡的に生き残った一人を除き、全員が犠牲になったそうです。戦後、直ちに回収し「燃料会館」として利用されました。
燃料会館の内部風景および展示資料地下室にいて奇跡的に助かった野村英三さんの「被爆体験」
燃料会館、原爆ドーム周辺ジオラマ 原爆ドーム(産業奨励館)と燃料会館との距離は、約170mしかありません。展示資料
夏の団欒チンドン屋夜の産業奨励館濱井理髪店
明子さんの被爆ピアノ燃料会館を後にホテルに戻る途中で、「動員学徒慰霊塔」に立ち寄りました。
動員学徒慰霊塔この後、原爆ドームを見てホテルに戻り、帰宅のためバスで広島空港に向いました。
最後に撮影した「原爆ドーム」以上で、本ブログ「広島ぶらり旅」をおわります。最後までご覧頂きありがとうございました。感謝!カンシャ!です。
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2024年1月 広島ぶらり旅(その3)
http://mdavinci.exblog.jp/33265810/
2024-02-21T19:46:00+09:00
2024-02-25T12:59:11+09:00
2024-02-21T19:46:46+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
呉駅に到着後、「大和ミュージアム」へ足を運びました。
その途中の風景
JR呉駅大和ミュージアムへの連絡通路鉄のクジラ(潜水艦)大和ミュージアム前のポセイドン像大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
日本一の海軍工廠の町として栄え、戦艦「大和」を建造した軍港、呉の歴史や造船、製鋼をはじめとした科学技術を紹介する博物館です。館内には、戦艦「大和」を10分の1スケールで再現した巨大模型が展示されており、間近で見学することが出来ます。展示室には、船を中心とした科学技術の原理なども解りやすく紹介されています。ゼロ戦こと「零式艦上戦闘機六二型」なども展示されています。その他、呉の歴史なども多くの写真と共に紹介されています。
大和ミュージアム「正月飾り」
戦艦「大和」巨大模型
戦艦「大和」関連資料零式艦上戦闘機(ゼロ戦)人間魚雷「回天」人間魚雷「回天」関連資料
館内展示風景
呉市空襲写真呉線と市街電車日本海海戦秋山真之の書簡山本五十六の書正岡子規の俳句「大船や 波あたたかに 鷗浮く」呉港の夕景
戦艦「大和」のふるさと
戦艦「大和」を建造した建屋 呉の空襲時にも奇跡的に生き残った建屋だそうです。
呉港へのフェリー入船
夕陽を浴びる大和ミュージアム落日呉のホテルで、夕食を済ませ、駅前からバスで広島・バスセンターに戻りました。
1月7日(日) 本日は、広島港を散策した後、比治山に登ります。
ホテルの部屋から見た風景
宮島遠望原爆ドームと平和公園広島平和祈念資料館朝食後、広島電鉄・路面電車の「一日券」を購入し、広島港(宇品)に向かいました。昨年、フェリーで江田島・切串港から広島港に着いた時には、素通りした事でもあり、広島港周辺を散策してみたいと思ったからです。
広電電車「一日乗車券」広電電車「路線案内図」車窓風景
車内風景
終点「広島港」広島港の風景
フェリーの運航図 様々なフェリーが行き交い、重要な住民の足になっていることが分かります。三高行きフェリー 江田島(西能美島)・三高港へ向かうフェリーです。後方に見える三角形の山は「安芸富士』と呼ばれる似島です。
フェリーに乗り込む乗客たち
出港する三高行きのフェリー似島行きフェリー松山行き高速船(双胴船)
広島港宇品旅客ターミナル広島港の絵画広場
広島港を見た後、宇品島にある「グランド プリンスホテル広島」に向いました。このホテルは、2023年G7サミット会場になったところなので、興味本位で訪れることにしました。途中、雲行きが怪しくなり、宇品島に入ったところで雨が降り始めました。途中で見た倉庫群グランド プリンスホテル広島G7サミット会場サミット時の写真及びサインホテルでひと休み窓越しに見た小鳥たち 庭に植えられたマリーローズの花の蜜を吸いにやって来たメジロと雀です。可愛いですね!
ホテルの庭
ホテルを後に、次の目的地「比治山」に路面電車で向いました。「比治山下」で電車を降り、比治山公園案内図をチェックし、最初「頼山陽文徳殿」に向いましたが、途中で立派な寺院「多聞院」を見つけ、そこに立ち寄りました。
比治山公園案内図多聞院
比治山下電停から比治山に登る途中にある真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天だそうです。もとは呉の音戸にあったそうですが、その後各地に移った後、慶長9年(1604年)福島正則が、当地に移転したと言われています。原爆投下時、鐘楼・十三重塔は奇跡的に破壊を免れ、全壊した県庁に替り「県防災本部」が置かれた他、比治山に逃げてきた多数の被爆者に握り飯を配給したそうです。また、頼(らい)家の墓があることでも有名です。鐘楼と十三重塔
境内の風景境内で多く見られる石仏たち頼家の墓
「頼 春水」の墓
「頼 栄次郎」の墓
山陽文徳殿
頼山陽没後百年祭を機に建設されたが、太平洋戦争の戦局悪化により、市役所から戸籍の大部分をここに疎開させたそうです。しかし、原爆投下による爆風で戸籍簿は飛散してしまいました。屋根の上の九輪塔は、爆風により変形したまま保存されています。ここを訪れた時、荒れた庭の掃除をしている人に遭いました。因みに、この建物は爆心地から1820mの距離にあるそうです。比治山をモニュメントを見ながら更に登っていくと、現代美術館がありました。
モニュメント現代美術館比治山の頂上付近に、陸軍墓地と放射線影響研究所および富士見台展望台があります。
陸軍墓地放射線影響研究所富士見台展望台 ここから似島「安芸富士」が見えるので、富士見台と名付けたのでしょう。勿論、広島市街を一望することが出来ます。展望台にある「文芸の碑」と「子規の句碑」
ひろしま 文芸の碑
子規の句碑「鶯の 口のさきなり 三萬戸」
比治山の散策を終え、スカイウォークで下山しました。
下山はしましたが、中心部への戻り道が分からず、店内でまごまごしていると、店員さんが親切に声をかけてくれ、道順を教えてくれました。
比治山トンネルこの後、平和大通りを散策しながらホテルまで戻りました。
平和大通りの風景
鶴見橋からの風景
平和大通りの石燈籠
何故、平和大通りに石燈籠なのか?疑問に思い調べたところ、次のような「石燈籠設置趣旨板」を見つけました。
「平和大通りは、平和を祈願する場所として世界的に名高い平和祈念公園への誘導路になっています。この平和大通りの東西約3kmの区間に、仏法的な石燈籠を33基設置しました。この石燈籠は東洋の石の芸術品として、千余年の歴史をもつもので、これが平和の道しるべとなって、平和の灯運動の輪を広げる機能を果たすことを期待しています。」 以下に4基の特徴的な石燈籠をアップします。
織部形石燈籠
古田織部が賞用した石燈籠といわれています。この形は数多くありますが、四角生込型で竿の一部に立像を刻み、四角形の火袋の左右両側に日・月を彫り抜いたものが一般的です。竿の形などから切支丹燈籠とも言われているそうです。
玄化寺形石灯籠
新羅時代の代表的な形であり、韓国の玄化寺本堂の前に建てられた石灯籠を模作したもの。
濡鷺形石燈籠
鷺が一本足で立っている姿を連想して造られた形と伝えられている石燈籠だそうです。大きな半円形の笠が独特な雰囲気を醸し出しています。
奥ノ院形石燈籠
春日大社奥ノ院の石燈籠を模したもので、側面に唐獅子を彫刻したところに特色があるそうです。また独創的に龍の彫刻も施してあります。
もみじ饅頭「にしき堂」広島市立 国泰寺中学校夕食を食べた日本料理店「なかたに」以上で「広島ぶらり旅(その3)」を終わります。引き続き「広島ぶらり旅(その4)」をご覧下さい。
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2024年1月 広島ぶらり旅(その2)
http://mdavinci.exblog.jp/33265055/
2024-02-20T20:24:00+09:00
2024-02-25T13:13:45+09:00
2024-02-20T20:24:29+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
「縮景園」の池めぐりで、かなり疲れたので、タクシーで「原爆ドーム」まで戻りました。これから元安川に架けられた元安橋を渡って「平和公園」に向いました。
原爆ドーム元安橋 平和公園との連絡橋の一つです。元安橋から見た原爆ドーム平和公園で最初に見た黄色い薔薇の花原爆の子の像
被爆のため白血病を発症し、折り鶴を折りながら闘病生活を続けた後亡くなった佐々木禎子さんを偲ぶと共に、原爆の犠牲になった子供たちを慰霊するために建てられたものです。この像の近くで撮影した大きな犬・グレートデン公園内で咲いていた山茶花
咲き誇るさざんかの花一面に散り敷く花びら祈りの像原爆死没者慰霊碑
原爆で壊滅した広島市が「平和都市」として再建することを願って設立されたものです。中央の石室には32万人を超える原爆死没者の名簿が納められています。この形は、霊を雨露から守るために、埴輪の家を模してたものだそうです。石碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。平和の灯
核兵器廃絶と世界恒久平和を願い、昭和39年8月1日に点火されたものです。核兵器が地球上からなくなる日まで燃え続けるそうです。掌を大空に向けた形を表現した台座と言われています。一直線上に原爆ドームがあります。
公園内の噴水広島国際会議場にある「バッケンモーツアルト・カフェ」 広島平和記念資料館の横にある建物にある人気のカフェの店カフェで英気を養って、再び平和公園を散策しました。
広島国際会議場に飾られた太鼓とモニュメント広島原爆死没者追悼平和祈念館 円形の建物の壁一面に被爆直後の壊滅した広島市街の写真が写し出されていました。 柳田邦夫の直筆原稿平和公園から見た原爆ドーム被爆前の建物「広島県産業奨励館」被爆前後の建物 広島県産業奨励館と原爆ドームを対比しながら、戦争の悲惨さを再認識しました。原爆ドーム前で安らぐ家族 河岸に寛ぐ親子の微笑ましい姿を見て、シャッターを切りました。平和の鐘 核兵器のない平和共存の世界を目指して設置されました。誰でも自由に鳴らすことが出来ます。平和の時計塔夕日を浴びて建つ原爆ドーム 元安川の水面の反射する光が印象的でした!夕暮れの相生橋夕暮れの原爆ドーム 満開の山茶花越に撮影しました。夕食は、広島風お好み焼きを食べに中区新天地にある「お好み村」に出掛けました。
お好み村「本家村長の店」 お好み村の創業者・古田正三郎さんの味と伝統を受け継ぐ店です。この店でお好み焼きを戴きました。「お好み村」 お好み焼きテーマパークの元祖。ビルの2階から4階までお好み焼きの店が集結し、大勢のお客さんで賑わっていました。1月6日(土) 本日は、竹原市と呉市を散策します。竹原へはバスを利用し、竹原駅前で下車しました。竹原市竹原市は、広島市の東に位置し、古くから瀬戸内の交通の要衝として発展しました。室町時代頃から港町として知られ、江戸時代後期には製塩業で栄えたそうです。「安芸の小京都』と呼ばれ、その街並みは素晴らしく、1982年には、たけはら町並み保存地区が「重要伝統的建造物保存地区」に選ばれました。また、2000年には「都市景観100選」にも選定されました。我々が乗車したバスJR竹原駅駅前商店街「たけはら町並み保存地区」へ行く途中の風景奇妙な家マンホール蓋たけはらの製塩業 竹原塩を全国へ届けた内容の説明文森川邸森川家住宅は、もと塩田地帯に総石垣(高さ2間)で敷地を造成し、明治前期に沼隈(福山市南方)から富豪・山路家の主屋を移築・改造して母屋とし、その背後に座敷を新築し、大正五年頃に完成したと言われています。その荘厳さには目を奪われます。
「たけはら町並み保存地区」堂面薬局
旅館「NIPPNIA」
三階建住宅
お好み焼き店「堀川」
松坂邸(松坂家住宅)
この建物は、江戸時代から昭和にかけての竹原塩田の所有者の家だそうです。表側の意匠は独特で、波打つような形「てり、むくり」を持った大屋根、大屋根の下の薄い鼠色の漆喰塗りの大壁には、塗り込めの額縁付きの菱格子の出窓がついています。その他、ゆるやかにカーブした庇、彫を組み込んだ出格子など、華やかなものとなっております。また、内部も数奇屋造りとなっております。文政頃(1818年~)の建物で、明治12年に全面的な改造が行われたようです。その後、昭和58年に市に寄贈された後、大修理を施し展示・公開に至ったものだそうです。
頼山陽の遺愛の柿の木
松坂邸の庭から見た普門閣
初代郵便局跡竹原市歴史民俗資料館展示されていた竹細工
塩づくり関連資料
境内に建てられたニッカウヰスキー創業者「竹鶴夫妻の像」
頼惟清旧宅頼山陽の詩碑軒先の風景
胡堂照連寺西方寺と普門閣
西方寺の石段と石垣
西方寺本堂
普門閣普門閣から見た竹原の街並み戻り道で撮影した街並み風景頼山陽の銅像竹原市の散策を終え、電車で呉市へ向かいました。
以上で「広島ぶらり旅(その2)」を終わります。引き続き「広島ぶらり旅(その3)」をご覧下さい。
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2024年1月 広島ぶらり旅(その1)
http://mdavinci.exblog.jp/33264252/
2024-02-19T20:35:00+09:00
2024-02-29T10:36:32+09:00
2024-02-19T20:35:04+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
今回の旅行で撮影した写真を本ブログに掲載します。よろしければご覧ください。
《日程》
1月4日(木) 羽田空港ー広島空港ー広島バスセンターーホテルで休息ーJR広島駅まで散歩ー夕食ー広島城・広島護国神社
1月5日(金) 朝食ー周辺公園散策ー原爆ドームー広島城・広島護国神社ー縮景園ー平和公園ーお好み村・夕食、周辺散歩
1月6日(土) 朝食ー竹原散策―呉・大和ミュージアム
1月7日(日) 朝食ー広島港ープリンスホテル広島ー比治山公園ー平和大通り周辺散策
1月8日(月) 朝食ー市内散策(袋町小学校、旧日本銀行広島支店、頼山陽史跡資料館、燃料会館など)ー広島空港ー羽田空港
《写真集》
1月4日(木)
羽田空港 1月2日に発生した日本航空機と自衛隊機の衝突事故の残骸がまだ放置されていました。
日本航空機の残骸自衛隊機事故対応の関係者たち羽田空港の風景
機窓風景
出発順番待ちMM21地区上空三浦半島 遠望富士山渥美半島、知多半島琵琶湖 上空淡路島小豆島瀬戸内海の島々広島空港「リーガロイヤルホテル広島」でひと休みした後、JR広島駅までぶらぶら歩きながらメイン通りの風景を楽しみました。
ホテルの正月飾り
ホテル周辺の風景ホテル周辺地図路面電車系統図紙屋町から電車通りに沿ってJR広島駅まで歩きました。途中の停留所は、紙屋町西、立町、八丁堀、胡町、銀山町、稲荷町、的場町、猿猴橋町そして広島駅です。思った以上に遠く感じ、少し疲れ気味になりました。
「紙屋町西」路面電車 途中で様々なタイプの電車を見ながら歩きました。「八丁堀」風景
旧福屋百貨店跡 あちらこちらに原爆被爆直後の写真を見ることが出来ました。現在の「福屋デパート」「胡町」薬研堀通り旧「稲荷町電車専用橋」 京橋川に架かる稲荷大橋の袂にある写真稲生(いなり)神社 衣笠祥雄が奉納した幟が翻っていました。広島駅前広島駅前の彫刻「朝」広島駅の散策を終え、路面電車で紙屋町に戻ってきました。ホテルの窓からは、眼下に原爆ドームや平和公園、遠くには宮島を望むことが出来ます。
ホテルからの眺望
原爆ドーム宮島の夕景夕食後、夜の広島城を見に出掛けました。
ホテル周辺風景
広島城
城門
城門から見たサッカースタジアム「エディオン・ピースウイング」 (今年2月オープン)
広島城・天守閣遠望広島護国神社
広島護国神社の初詣を終え、ホテルに戻りました。
ホテルの玄関で見つけた車への映り込み1月5日(金)
朝食をすませた後、周辺を散策しました。
地下道の壁画広島県立総合体育館プラタナスの並木ハノーバー庭園 遠くに見えるのが「リーガロイヤルホテル」鈴木三重吉「記念碑」蒸気機関車「C591261」女神像新聞配達少年広島中津宮オープン間近なサッカースタジアム「エディオン・ピースウイング」太田川河岸風景太田川で見つけたハクセキレイ相生橋下からの風景 これから下流が元安川だそうです。河岸から見た原爆ドーム元安川河岸にある「鈴木三重吉像」および「記念碑」元安川を航行する宮島連絡船とリバークルーズ船原爆ドーム被爆直後の原爆ドーム広島城 本日は、堀の外側から広島城を見るルートを選びました。
広島城は、天正17年(1589年)、中国地方の大半を領有していた毛利輝元によって、水陸交通の便の良い太田川河口に築かれ平城です。毛利氏は関ヶ原合戦の後移封されますが、江戸時代には福島正則を経て、浅野氏12代の居城となりました。明治時代以降も天守閣やいくつかの建物は残されましたが、原爆によりすべての建物は全壊しました。天守閣は昭和33年に再建され、現在博物館として利用されています。また、国の史跡にも指定されています。
広島城の石垣と太鼓櫓
堀で泳ぐ鯉や鳥たち
錦鯉
キンクロハジロ
カンムリカイツブリキンクロハジロとカンムリカイツブリ城の境内にある被爆樹木クロガネモチ
楠木広島大本営跡広島護国神社
広島護国神社は、明治元年の戊辰戦争で戦没した78柱の広島藩士を二葉の里の水草霊社に祀ったのが始まりだそうです。昭和9年には旧市民球場の西側に移転されましたが、その後原爆で焼失し、昭和31年に現在の広島城跡に再建・復興されました。祭神は第二次世界大戦までの旧安芸国出身の戦死者のほか、原爆投下で犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒および女子挺身隊などを含めた約9万2千柱だそうです。
車のお祓い風景阿形、吽形狛犬
縮景園
国の名勝、日本の歴史公園100選に選ばれています。元和6年(1620年)、広島藩浅野氏初代藩主・浅野長晟(ながあきら)が造らせた藩主の別邸が起源だといわれています。歴代の浅野藩主から寵愛をうけ現在まで拡幅し、昭和15年に浅野氏が広島県に寄贈され現代に至っています。現在の庭園の原型は、京都の庭師「清水七郎右衛門」による大改修により造られたといわれています。原爆投下で荒廃しましたが、1970年代に再建され、現在の姿になったそうです。
池泉回遊式庭園舟を操り、池を移動縮景園の散策は満喫しましたが、流石に疲れたので、タクシーを利用して「原爆ドーム」へ向かいました。
以上で「広島ぶらり旅(その1)」を終わります。引き続き「広島ぶらり旅(その2)」をご覧下さい。
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2024年2月 第15回「三水会」展
http://mdavinci.exblog.jp/33262949/
2024-02-18T09:53:00+09:00
2024-02-19T08:39:33+09:00
2024-02-18T09:53:34+09:00
mda-vinci
その他
《写真集》
「かなっくホール」横浜市神奈川区民文化センター「第15回三水会展」ポスター 会場の入り口に掲示されたポスター《全員の集合写真》《出品者》
1.長谷川 輝之 「水墨画」 3作品 「しょうへいがうらやましい」 「がんばれアメフト部」 「世界陸上、女子やり投げ、金メダルの快挙」2.臼田 悟 「水彩画」 3作品 「汐吹き港」 「OLD AMERICAN AVEENUE」 「金沢漁港」3.西 忠彦 「水彩画」 2作品 「キク」 「ナイトウトウガラシ」4.安斎 孝儀 「ステンドグラス」 1作品
「多幸」5.可知 康彦 「木彫り」 2作品
「Handshake(握手)」 「No War(戦争反対)」6.畠山 昇夫 「彫刻」 3作品 「恵比寿」 「九面観音」 「大黒天]7.黒澤 利幸 「陶器」 3作品 「石灰白萩釉花入れ」 「手桶花入れ(鶸色釉、石灰白萩釉)」 「四角花入れ(石灰白萩釉、黒釉流し)」8.楠本 康治 「水彩画」 3作品 「赤いヨット」オランダ・マルケン島 「カラフルなヨット群」オランダ・マルケン島 「緑のかけ橋」大和市・泉の森9.田口 喜代美 「水彩画」 3作品 「奈良 法起寺」 「横浜 山手234番館」 「横浜 エリスマン邸」10. 木崎 肇 「油絵」 3作品 「チェスキークルムロフ」チェコ 「白川郷」 「鍾乳洞」11. 石川 勉 「写真」 3作品 「アカショウビン(上)、ヤマセミ(下)」 「ナンヨウショウビン」 「コウハシショウビン」12. 堀江 禮司 「写真」 3作品 「タマムシ」 「樹の造形 1」 「樹の造形 2」13. 松本 道湛 「写真」 3作品 「野生の猿たち」長野・上高地 「瀬戸内の夜明け」広島・大崎上島 「夕空の移ろい」北海道・函館港14. 服部 道紀 「銅版画」 3作品 「祭りの夜」 「晩秋の奥入瀬」 「風の盆」15. 村上 惟司 「コンピュータ ペイント」 3作品 「山小屋」 「スノーモンスター」「カクテル・バラ」【追加作品】 臼田 悟 「写経」 「般若心経」《会場風景》
以上で、本ブログ「第15回 三水会展」を終わります。最後までご覧頂き、ありがとうございました。 感謝!カンシャ!です。来年もみんな元気にお会いしましょう!健康管理に万全を期され、健やかにお過ごしください。
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2023年12月 北九州の旅(その3)
http://mdavinci.exblog.jp/33235225/
2024-01-26T19:40:00+09:00
2024-02-18T09:58:50+09:00
2024-01-26T19:40:03+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
12月18日(月)
本日は、午前中に伊万里「大川内山(おおかわちやま)」の焼物の里を訪れ、昼食は呼子にある国民宿舎「波戸岬」で烏賊料理を戴く予定です。その後、佐賀市内に戻り、佐賀城跡および佐賀城歴史博物館を見学した後、佐賀空港から空路で帰宅します。
朝食後、嬉野温泉「大正屋」の直ぐ近くにある「豊玉姫神社」を散策しました。
豊玉姫神社
御祭神の豊玉姫大神は、美肌の湯として知られる嬉野温泉に鎮座する「美しい肌の女神さま」だそうです。豊玉姫様の遣いの「白ナマズ」は、古来「肌の病」に効能がありとして、湯治客から信仰を集め、現在も美肌を祈願する参拝者が絶えないそうです。境内には、豊玉姫神社を中心に、向って左に八坂神社、右に天満宮が鎮座していました。
参道風景 参道は、旧長崎街道に面し、小道の先に社殿がありました。豊玉姫神社手水舎の白ナマズ 拝殿
拝殿前の牛と狛犬 最初、何故「牛」が奉納されているのか不思議に思ったのですが、境内に天満宮が祀られていることが判り、その謎は氷解しました。
拝殿横に置かれた「因幡の白兎」
本殿および狛犬「八坂神社」 素戔嗚尊を祀る神社なので、八岐大蛇など関連の絵馬が奉納されていました。八坂神社の外壁に描かれている豊玉姫と白ナマズ天満宮大正屋を後に、本日の最初の訪問地「伊万里・大川内山」に向いました。
伊万里・大川内山(おおかわちやま)
江戸時代、佐賀藩・鍋島家の御用窯が置かれていた場所で、今では「秘窯の里」と呼ばれている焼物の町です。山水画を彷彿とさせる切り立った屏風岩が印象的なところです。佐賀県の伊万里・有田は、約400年に亘って、日本を代表する磁器の生産地として栄えた処です。この地「大川内山」に御用窯が置かれたのは、万治3年(1660年)頃と言われています。それまで、将軍や老中などに献上する焼物は、有田で焼かれていましたが、製作技法が外に漏れなしようにするため、三方が山に囲まれ、険しい地形の「大川内山」に藩窯が移されそうです。入口に関所を設け、「門外不出」の管理体制で焼かれた秘窯の焼物が「鍋島焼」「色鍋島」です。この街を散策すると、その面影を探すことが出来ます。
鍋島藩窯橋
陶祖橋大川内山の街並み鍋島藩窯関所跡鍋島藩窯「鍋島御庭焼」
青山窯と屏風岩 大川内山の代表的な風景です。煉瓦造りの煙突の横に聳えているのが「屏風岩」です。
清正公堂と大銀杏大五窯と展示品町はずれの高台にある「鍋島藩窯公園」 これから伊万里川の方に下りて行くと、昔の窯跡や登り窯などがあります。この公園付近から見た大川内山の風景伊万里川上流に架かる「トンバイ橋」 河岸には色鍋島の六角形の磁器が埋め込まれていました。因みに「トンバイ」とは、中国語で登り窯を築くときに使用する耐火煉瓦のことだそうです。昔の登り窯「御経石窯跡」登り窯
帰り道で見た風景天神橋
この橋の袂に、大川内山を脱走し、秘技を外部に漏らした工人「勇七」の物語が焼物として貼り付けてありました。その一部を掲載します。それによると、愛媛県砥部焼は勇七が伝授したと書かれています。大川内山の街並み散策中に出遭った猫鍋島藩窯橋 反対側の橋の風景です。
大川内山のシンボル「唐臼小屋」
ここ大川内山には、伊万里鍋島焼の原料である陶石が豊富にあり、これらを唐臼で砕き、鍋島青磁の原料を作っていました。江戸時代、大川内山の河畔には多くの水車が建ち並び、陶石を砕く音が木霊していたといわれています。これらの唐臼小屋は昭和40年代初めには姿を消しましたが、これらの設備は、その後再建され、今も大きな音を立てて動いています。何と言っても趣のあるもので、往時を彷彿とさせてくれる貴重な施設です。
唐臼小屋
「めおとしの塔」
唐臼小屋への陶工橋を渡ると、伊万里焼の14個の風鈴が澄んだ音で出迎えてくれます。これは、鍋島藩時代、焼物を叩き、音色で選別したといわれる「めおとし」の技術を再現した塔で、日本音百選にも選ばれているそうです。この仕組みは、陶工橋を渡るとセンサーが反応し、IC回路の機能が働き音を出しようになっているようです。この地に建てられた句碑 「粧ふて 色鍋島の 山河あり」陶工橋から見た「陶祖橋」方面の風景伊万里・大川内山の散策を終え、昼食会場のある呼子(よぶこ)・波戸岬へ向かいました。
車窓風景
呼子朝市通り呼子港国民宿舎「波戸岬」昼食「烏賊料理」昼食後、国民宿舎の周辺を見て廻りました。
国民宿舎から見た波戸岬玄海海中展望塔浜辺迄下りて周囲を散策しました。波戸岬海辺の風景敷地に咲いていた花
水仙の花カンナの花「日中不再戦」碑国民宿舎で見つけた印象的な屏風絵など
国民宿舎「波戸岬」での昼食を終え、佐賀城および佐賀城歴史博物館にバスを走らせました。
佐賀城
佐賀城は、佐賀市の中心に位置し、輪郭梯郭複合式平城だそうです。佐賀城の前身は、肥前の戦国大名・龍造寺隆信をはじめ、龍造寺宗家代々の居城「佐賀龍造寺城」といわれていました。慶長期に鍋島氏による改修により、現在の佐賀城の姿になったとのこと。古名は佐嘉城で、別名「沈み城」とも呼ばれたそうです。江戸時代初期に完成した後、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城として明治維新を迎えたそうです。
鍋島直正公像と鯱の門
鍋島直正公像
鍋島直正は、天保元年(1830年)に佐賀藩10代目藩主となり、藩財政改革をはじめ諸改革に取り組み、名君と謳われました。大砲製造方を置き、嘉永5年(1852年)には洋式鉄製大砲を日本で初めて製造するなど、軍備の強化にも努めました。佐賀藩は、彼の強力なリーダーシップによって、反射炉や蒸気機関車も造り、海軍の育成、造船所建設を行うなど、幕末最強の軍事力を持つようになりました。維新後は、議定職、開拓使初代長官を歴任しました。号は「閑叟」、佐賀の七賢人の一人に数えられています。
鯱の門と続櫓
この門は、鍋島氏36万7千石の佐賀城の本丸表門で、天保九年(1838年)に建設されたそうです。門壁は白壁で、棟の両端には名前の由来である青銅製の鯱が置かれています。どっしりとした門や扉には、「佐賀の役」の弾痕が残っており、当時の闘いの凄まじさを今に伝えています。国の重要文化財に指定されています。
青銅製の鯱
阿形の鯱
吽形の鯱
鯱の門
城内に置かれた大砲カノン砲アームストロング砲佐賀城本丸歴史館館内風景および展示物館内のガイドさん
館内風景展示物本丸御殿模型古文書副島種臣の書フェートン号事件の絵図鍋島直正公肖像画「葉隠」についての説明文パリ万博と佐賀藩幕末の偉人たち「反射炉」関連資料蒸気機関車の走行図西洋医学の導入佐賀藩の輸出品「佐賀城本丸歴史館」の展示物を見た後、佐賀空港に向いました。
以上で、「北九州の旅」のブログを終了します。最後までご覧頂き、本当にありがとうございました。
私の生まれ故郷の福岡周辺の旅でしたが、十分満足のいくものでした。特に、その土地特有の美味しい食べ物を戴くことが出来、これに過ぎる喜びはありませんでした。これからも一日一日を大切に、好奇心の赴くままに精力的に「旅」を続けていきたいと思っています。
ー 以 上ー
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2023年12月 北九州の旅(その2)
http://mdavinci.exblog.jp/33233774/
2024-01-24T20:14:00+09:00
2024-01-30T07:50:17+09:00
2024-01-24T20:14:05+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
12月17日(日) 本日は、小倉を出発し、まず宗像大社に向います。その後、白秋の故郷・柳川に行き「川下り」を楽しみます。最後に佐賀・武雄に戻り、武雄神社と樹齢3000年の大楠を見た後、嬉野温泉にある老舗旅館「大正屋」に宿泊する予定です。
「リーガロイヤルホテル小倉」から見た風景バスの車窓風景
リーガロイヤルホテル小倉小倉駅前篠崎八幡宮
途中の雪景色 高速道路走行中に、雪で白くなった景色を見ることが出来ました。夜中に初雪が降ったようです。宗像大社
宗像大社は、福岡県宗像市にある神社で、日本神話に登場する日本最古の神社の一つです。御祭神は、天照大神の三女神で、沖津宮、中津宮、辺津宮にそれぞれ祀られており、それら三宮を総称して宗像大社といわれています。因みに、沖ノ島の沖津宮には田心姫神(たごりひめ)、大島の中津宮には湍津姫神(たぎつひめ)、本土の辺津宮には市杵島姫神(いちきしまひめ)が祀られています。日本書記には、天照大神から宗像三女神へ「歴代天皇をお助けすれば、歴代天皇が祀るでしょう」との言葉が残されているそうです。
辺津宮
手水舎「和楽」神門神門から見た拝殿拝殿消防団の神事 偶々、このタイミングで消防団の神事が行われていました。その様子を時系列的に追ってみました。
祓舎での神官のお清め儀式 祓舎でお清めをした後、歩いて社殿に向い、そこで消防団へのお祓いを行っていました。拝殿および本殿
社殿は、遅くとも12世紀までには築かれていたようです。戦乱などで度々焼失しましたが、その都度再建されました。最後に焼失したのは弘治3年(1557年)で、天正6年(1578年)に大宮司・宗像氏貞によって本殿が再建されたそうです。一方、拝殿は天正18年(1590年)に九州に転封された小早川隆景によって再建されたようです。その後は、福岡藩主・黒田氏によって修理費用は賄われたようです。因みに、本殿、拝殿とも国の重要文化財に指定されています。
境内にある末社群本殿から少し離れたところに、沖津宮の田心姫神と中津宮の湍津姫神を祀る「第二宮」「第三宮」があります。現在の第二宮、第三宮の社殿は、第60回式年遷宮(昭和48年)に際して、伊勢神宮の別宮の古殿舎を下賜されたものだそうです。
第二宮(ていにぐう) 沖ノ島にある沖津宮の田心姫神が祀られています。左奥にあるのが第三宮です。第三宮(ていさんぐう) 大島にある中津宮の湍津姫神が祀られています。境内の森をさらに奥に行くと、高宮祭場があります。高宮祭場は辺津宮の起源となる古代祭祀の場で、下高宮祭祀遺跡の一部で、信仰上極めて重要な場所といわれています。御祭神である宗像三女神が降臨した場所とも伝えられています。神社に社殿が造られるようになったのは奈良時代からと言われていますが、高宮祭場のような屋外での祭祀は、それ以前のものと考えられます。
高宮祭場
沖ノ島と並び宗像大社境内で最も神聖な場所の一つです。神社に社殿が造られる以前の祭祀形態である「神籬(ひもろぎ)」、高宮祭場の場合は樹木を神の依り代にする祭場です。岩や樹木などに神が宿るという神道の根源である自然崇拝を今に伝える全国でも稀な古代祭場です。高宮祭場への途中風景 途中でチラチラ初雪が降り始めました。初雪の風景松尾神社蛭子神社境内にある摂社群帰りの参道風景宗像大社の参拝を終え、次の訪問地「柳川」に向いました。
柳川
柳川と言えば、柳川川下り(お堀めぐり)、北原白秋の生家、柳川藩主立花邸・御花、鰻の蒸籠蒸しなどが有名です。昔、御花に宿泊して食べた「鰻の蒸籠蒸し」が忘れられず、今回の旅への「引き金」になったのも事実です。「柳川川下り」は初めてなので、非常に楽しみです。
若松屋「鰻の蒸籠蒸し」 安政年間(1860年)に創業した鰻の専門店です。柳川藩主立花邸 御花柳川の街並み
柳川川下り
西福寺
沖端水天宮北原白秋の生家白秋の歌碑 「町祠 石の恵比須の 鯛の朱の 早や褪せはてて 夏西日なり」街角の「石の恵比須さま」 柳川川下り
堀に架かる橋の高さが低い時、こんなことをするのかと吃驚しました。船頭さんは、橋をよじ登り、反対側から再び舟に飛び降りる芸当をしていました。その様子をカメラに収めました。
舟が橋に近づいた時のスナップ
橋によじ登る時のスナップ
橋から飛び降りた時のスナップ
我々の「柳川川下り」の始まりです。
スタート地点の風景柳川川下りを楽しんだ後、佐賀・武雄神社に向いました。武雄神社この神社は、佐賀県武雄市武雄町の御船山の山麓にあり、創建は天平3年〈735年)と言われています。主祭神は武内宿祢で、樹齢3000年ともいわれる御神木の大楠があることでも知られています。昔、この大楠を見に来たことがあるのですが、その時点では柵はなく、自由に神木に近づけた記憶があります。石灯篭の獅子
絵馬 10月23日に奉納される鏑流馬神事の絵馬です。
塩釜神社荒神社大楠へと続く竹林竹林越に見える樹齢3000年「大楠」大楠 かなり広い区域が柵で囲われ、入場禁止になっていました。遠くから眺めるだけで、若干興ざめな趣で少し残念でした。この巨大な根元は、何かの「顔」に見えませんか?
この部分も人間の顔のように見えて、シャッターを切りました。
冬苺 大楠を見ての帰り径で沢山見つけました。子供の頃、食べた記憶があります。帰り径で撮影したシルエット安産祈願石と夫婦桧射手塚
毎年、10月23日に流鏑馬がこの神社の参道で奉納されるそうですが、この時、射手が落馬すると割腹して詫びることになっていたようです。この塚は、割腹した射手を葬った塚だそうです。
武雄神社の参拝および樹齢3000年の大楠を見た後、嬉野温泉にある老舗旅館「大正屋」に向いました。
夕食の献立
夕食「佐賀牛」 昔、鎌倉に佐賀牛専門店があり、その店に通ったのを思い出しました。大正屋の庭園 窓から見える椿の花に魅了され、多くの写真を撮りました。そのうちの数枚です。大正屋のコレクション
見事な「アンスリューム」
嬉野温泉公式キャラクター「ゆっつらくん」
「日本三大美肌の湯」として知られる嬉野温泉の湯気をモチーフにつくられたそうです。
大正屋の陶磁器コレクション
以上で、「北九州の旅(その2)」を終わります。引き続き「北九州の旅(その3)」をご覧下さい。
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2023年12月 北九州の旅(その1)
http://mdavinci.exblog.jp/33232121/
2024-01-23T11:36:00+09:00
2024-01-28T14:07:20+09:00
2024-01-23T11:36:53+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
12月16日(土) 羽田空港ー佐賀空港ー大宰府―門司港ー下関「赤間神宮」「春帆楼」 宿泊「リーガロイヤルホテル小倉」
12月17日(日) ホテルー宗像大社ー柳川ー佐賀「武雄神社、樹齢300年大楠」 宿泊 嬉野温泉・老舗旅館「大正屋」
12月18日(月) 嬉野温泉「豊玉姫神社」ー伊万里「大川内山」ー佐賀「佐賀城本丸歴史館」-佐賀空港ー羽田空港
《写真集》
12月16日(土)
機窓風景 曇り空で、途中はほとんど何も見えませんでしたが、佐賀空港への着陸直前で有明海を視界に捉えることが出来ました。有明海の「海苔ひび」
機窓から撮った雨の佐賀空港搭乗機
佐賀空港
佐賀空港の入口にある恵比須像
佐賀空港周辺地図 佐賀空港は、有明海に面して造られたんですね!大宰府へ行く途中の車窓風景 佐賀空港は、有明海を干拓したところにあり、周辺には農地が広がっていました。気になった散髪屋
山水画の描かれた寺の壁 こんな寺院は、初めて見ました。非常に印象的でした。大宰府天満宮
太宰府天満宮は、福岡県太宰府市宰府にある神社で、旧社格は官幣中社・現在神社本庁の別表神社だそうです。菅原道真公を祭神とする天満宮のひとつです。神紋は梅紋です。京都の北野天満宮とともに、全国天満宮の総本社とされ、菅公の霊廟として篤く信仰されています。初詣の際には、九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間では850万人以上の参詣者があるそうです。2023年5月より、本殿の改修工事が行われており、訪問時も「仮本殿」で参拝を済ませました。
大宰府の参道西鉄「太宰府駅」参道脇の商店街
喫茶「風見鶏」
御菓子処「梅園」
スターバックス 独特なデザインが目を引きます。
梅が枝餅「松尾商店」参道の鳥居
二の鳥居
四の鳥居
太宰府天満宮の境内図御神牛 雨中にもかかわらず、御神牛を撫でるため、行列が出来ていました。太鼓橋 心字池には赤い太鼓橋など三つの橋が架けられています。手前から「過去」「現在」「未来」を表しているそうです。心字池
境内の大楠 境内には何本もの大楠があり、堂々たる風格を漂わせています。そのうちの一本です。手水舎「亀の水盤」楼門楼門脇にある麒麟と鷽の像
麒麟の像鷽の像 鷽替え神事として有名です。仮本殿 仮本殿でのお祓い風景境内での雨中スナップ境内の巨大楠屋根を貫く大楠心字池脇の大楠
菓祖「中島神社」宝物殿菖蒲池昼食を摂った店の座敷からの眺望 対岸に見える建物が「宝物館」です。菖蒲が咲く季節は、さぞ綺麗でしょうね!心字池の畔から見た「過去の太鼓橋」心字池の島に祀られている今王社と志賀社参道にある延寿王院「五卿遺蹟碑」浮殿 鎌倉時代には既に存在していたと言われる「浮殿」です。平成になって作庭された回遊式庭園です。帰り道の参道風景和傘屋
「雨ニモ負ケズ」参拝を済ませた母親と子供
梅が枝餅「萬家」と「松屋」 二種類の梅が枝餅を食べ比べてみました。店ごとに、味,食感が違うことが判りました。参道のマンホール蓋 ポケモンのデザインでした。大宰府天満宮を後に、次の目的地「門司港」に向いました。車窓から「観世音寺」と「都府楼跡」を眺めながら。観世音寺7世紀の後半、天智天皇の発願で、母・斉明天皇の供養のために創建されたと言われています。鐘楼の梵鐘は国宝で、菅原道真が漢詩「不出門」で詠んでいるまさにその鐘です。除夜の鐘でよく放送されることでも有名です。
都府楼跡 大宰府政庁跡のことです。大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりといわれています。700年代の前半には、大伴旅人や山上憶良などの万葉の歌人たちが赴任し、多くの歌を詠んだところでもあります。901年には菅原道真が太宰権帥に左遷されことでも有名です。門司港明治から昭和にかけて、国際貿易の拠点として発展し、横浜・神戸と並んで「日本三大港」の一つに数えられた港です。当時建てられた煉瓦造りの建物などが今なお多く残り、レトロな雰囲気を醸し出しています。
門司港駅現在の駅舎は,大正三年(1914年)に門司駅として開業したネオ・ルネッサンス様式の復元したもので、2019年にグランドオープンしたものです。鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定されています。ホームの風景は、横須賀駅に酷似ししており、改札口からホームまでフラットな構造になっています。
駅前の「和布刈神事」像
ワカメのことを和訓で「め」といい、「め」を刈る事から「めかり」と呼ぶようになったそうです。旧暦元旦の午前2時半頃、3人の神職が仮衣、烏帽子姿で、約3mある大きな松明を持って、冷たい海中に入り、岩についたワカメを刈り取る神事だそうです。県の無形文化財に指定されています。
門司港周辺のレトロな建物群
三井倶楽部旧門司税関庁舎大連友好記念館旧大阪商船ビル旧JR九州本社ビルプレミアホテル門司港門司港レトロ展望台
正面に「大連友好記念館」、左端に「旧門司税関庁舎」、奥に「関門橋」が見えます。因みに展望台の高さは103mで、展望室からレトロ地区が一望できます。ブルーウイングもじ 関門海峡を一望できる歩行者専用の橋です。この日は荒天で、風は強く、海は荒れていました。橋から眺めた関門橋
ガス灯通りショッピングモール「海峡プラザ」店内風景バナナのモニュメント
門司港は、露天商などが口上を述べながらバナナを売る「バナナのたたき売り」で有名です。「男はつらいよ」が火付け役になり、「門司港バナナ叩き売り連合会」が叩き売りを継承しているそうです。
トロッコ並木道門司港の散策を終え、関門海峡を渡り下関「赤間神宮」に車を走らせました。
赤間神宮
壇ノ浦の合戦で敗れ、僅か8歳という幼さで入水された安徳天皇を祀る神社です。竜宮城をイメージして造られた朱色の「水天門」が別世界へ誘ってくれるようです。壇ノ浦を望む「水天門」は、鮮やかな竜宮造りで国の登録有形文化財に指定されています。「海の中にも都はある」と言ったと伝えられる二位の尼の願いを反映したものといわれています。その他、境内には、平家一門の墓や小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂もあります。
平家一門の墓所芳一堂高浜虚子の句碑「七盛の 墓包み降る 椎の露」水天門から見た壇ノ浦
安徳天皇御陵赤間神宮の参拝を終え、直ぐ隣にある「春帆楼」に向いました。夕食は、この春帆楼で河豚料理を戴く予定です。夕食時間まで少し余裕があるため、敷地内にある「日清講和記念館」を見学しました。
「春帆楼」
この春帆楼は、下関市阿弥陀寺町にある割烹旅館です。1895年、日清講和談判場として、時の全権・伊藤博文等が清国使節・李鴻章等と会見し、日清戦争の講和条約である「下関条約」を締結した歴史的な場所であります。
敷地内にある伊藤博文と陸奥宗光の像
「日清講和記念館」下関条約を締結した室内風景
座席 左から内閣総理大臣「伊藤博文」、外務大臣「陸奥宗光」、内閣書記官長「伊東己代治」の順に座っていたようです。
孔雀の屏風春帆楼の入口 「史跡 春帆楼 日清講和談判場」の石碑が建てられています。
夕食の河豚料理春帆楼の夜景夕食を終え、再び関門海峡を渡り、小倉駅前のリーガロイヤルホテル小倉に向いました。
「リーガロイヤルホテル小倉」からの夜景
JR小倉駅
以上で、「北九州の旅(その1)」を終わります。引き続き「北九州の旅(その2)」をご覧下さい。
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2023年11月 越前の旅(その3)
http://mdavinci.exblog.jp/33202158/
2023-12-25T13:41:00+09:00
2023-12-30T13:14:29+09:00
2023-12-25T13:41:31+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
古民家レストラン「茶屋おがまち」
暖簾を潜る人たち 夕食の料理夕食後、この店の素敵な庭を拝見しました。庭先の木々は、雪つり作業も終わり、冬を迎える準備が完了していました。この庭の一角から、見事にライトアップされた「越前 大野城」を眺めることが出来ました。
庭園風景食事を終え、外に出ると古民家の格子の影が道路に映り、素敵な影を演出していました。その足で、六呂師高原へ向かいました。快晴とまではいきませんが、何とか星空が見えそうなので、「星空ハンモック体験」を楽しむためです。現地では、ハンモックに包まり、ソムリエの解説を聞きながら、星空を観察することが出来ました。このような星空観察は、生まれて初めての経験でした。率直な感想を言えば、「ハンモックは寒かった!」の一言です。
六呂師高原
建物の外観
建物の内部
説明中のソムリエハンモックに包まっての星空観察建物内の装飾品 それぞれ多くの展示品がありましたが、ここではそのほんの一部をアップします。
星座の説明板
「水瓶座」「魚座」
「牡羊座」
カエルの音楽隊海の男たち天体望遠鏡での惑星観察11月21日(火) 本日の予定は、福井鉄道の貸切乗車体験と北府駅見学、港町敦賀・海鮮市場「日本海さかなまち」での昼食、紫式部公園の散策などです。
「ホテルハーヴェスト スキージャム勝山」を出発し、福井鉄道「神明駅」に向いました。この駅から、「北府(きたご)駅」まで貸切りで乗車します。勿論、福井鉄道の案内人同行のイベントです。
神明駅案内人のスケジュールおよび注意事項の説明
神明駅を通過する電車
我々の貸切り電車が神明駅に近づいてきました。到着した貸切り電車 早速、乗車を開始しました。二段階踏板電車内風景運転席北府駅までの車窓風景
西山公園駅北府駅に到着北府駅舎
駅舎内の「鉄道ミュージアム」
展示品
ソフトバンクの宣伝ポスター
北府駅前風景北府駅に展示されている「モハ200形」車両工場除雪車 車体側面は板張りの除雪車ですが、現在も現役で活躍しているとのこと。北府駅を見学した後、港町・敦賀の海鮮市場「日本海さかなまち」に向いました。ここで新鮮な蟹メニューの昼食を摂りました。
日本海さかな街昼食で食べた「海鮮丼」
昼食を摂った後、越前市にある「紫ゆかりの館」および「紫式部公園」に車を走らせました。「源氏物語」の作者である紫式部は、若い頃一年余り都を離れ、越前国府で過ごしと言われています。即ち、紫式部は国司に任命された父・藤原為時に同行し、越前国に下って来ました。翌年には京都に戻り,藤原宣孝と結婚したとのこと。3年後には宣孝は亡くなり、そのころから紫式部は、「源氏物語」を書き始めたのではと考えられています。
紫ゆかりの館 こちらに向ってくる女性が、紫式部公園を案内してくれたガイドさんです。紫ゆかりの館の内部風景紫式部公園紫式部を偲び、平安時代の庭園を再現して整備された全国で唯一の寝殿造庭園と言われています。園内には、金色に輝く紫式部像、紫式部が越前で詠んだ歌碑、泉池を望む釣殿などがあります。公園から見る日野山も極めて印象的です。反橋と平橋 奥に見える山は、紫式部が歌に詠んだ日野山(越前富士)です。
釣殿
池の水面への映り込み
紫式部像紫式部像の台座に嵌められたレリーフ
歌碑 紫式部が、越前に来て、初めて迎えた冬に読んだ歌「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」公園で行われていた雪つり作業紫式部公園を満喫した後、今回の旅の終わりに「越前そばの里」を訪問しました。ここで、越前蕎麦の試食と名物のぼた餅を頂きました。「越前そばの里」店舗の前に咲いていた蕎麦の花
店内風景
蕎麦製造工場お土産コーナー蕎麦つくり人形 蕎麦の収穫から提供までの各工程を面白く表現した人形です。つい、カメラのシャッターを切りました。育成・収穫作業製粉作業 石臼でひいて、そば粉を作っています。捏ねる作業のし作業のし作業そば切り作業茹で作業出来上がり「越前そばの里」で十分楽しんだ後、JR福井駅に向いました。車窓風景
JR福井駅
北陸新幹線「福井・敦賀」開通予定ポスター
北陸新幹線 2024年3月16日開業ポスター
福井駅ホーム サンダーバードが少し遅延したため、その間に撮影した風景です。左手が芦原温泉行き普通電車、右手は敦賀行き普通電車です。
その後、少し遅延した「サンダーバード31」に乗り、金沢駅で「かがやき516」に乗換え、東京駅に戻ってきました。
以上で、本ブログ「越前の旅」を終わります。最後までご覧頂き本当にありがとうございました。感謝、カンシャです!
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2023年11月 越前の旅(その2)
http://mdavinci.exblog.jp/33201264/
2023-12-24T12:08:00+09:00
2023-12-26T13:00:30+09:00
2023-12-24T12:08:43+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
11月20日(月) 本日は、東尋坊、恐竜博物館、白山・平泉寺、九頭竜湖・夢のかけ橋を廻った後、六呂師高原で星空ハンモック体験に挑戦します。
「三国オーシャンリゾート&ホテル」および周辺の風景
ホテルの部屋からの景色
目の前に広がる日本海
日本海に注ぐ九頭竜川すぐ横に見える坂井市龍翔博物館
遠方に見える風力発電の風車
ホテルから見た光芒 滅多に見ることの出来ない見事な光芒を見つけ、早速カメラに収めました。カラーとモノクロで撮った写真を掲載します。ホテル内部風景 勝山が近いこともあり、ホテルに恐竜が飾られていました。その他、三国港は北前船で栄えた土地でもあり、その壁画も描かれていました。出発する前、少し時間の余裕があったので、ホテル周辺を散策しました。
坂井市龍翔博物館
福井県坂井市三国町にある綜合博物館です。港町「三国」の自然と歴史風土および文化遺産を紹介する施設として、昭和56年(1981)に「みくに龍翔館」として開館しました。リニューアル改修工事に伴い、令和2年より長期休館に入り、令和5年4月1日をもって「坂井市龍翔博物館」と改称し、同年6月3日にリニューアルオープンしたものです。外観は、明治12年(1879)にG・A・エッセルが設計した「龍翔小学校」を忠実に模して造られたといわれています。
三国成田山
坂井市三国町にある成田山新勝寺の福井別院として建てられたもので、正式名称は「成田山 福井別院 九頭竜寺」です。真言宗智山派の北陸地区唯一の成田山別院だそうです。ホテルを出発し、本日の最初の訪問地「東尋坊」に向いました。この時点で、晴れていた空が東尋坊を散策中に急変し、突如雹が降り出した後、大雨になりびしょ濡れの憂き目にあいました。北陸の天気は変わり易く「弁当忘れても傘忘れるな!」という格言を身に沁みて思い知らされました。東尋坊には何度となく訪れていますが、このような経験は初めてです。
東尋坊
本日の東尋坊は、波が非常に荒く、玄武岩に打ちつける波飛沫が降り注ぐような状況でした。今まで穏やかな景色ばかり見ていたので、その荒々しい波濤に圧倒される思いでした。
東尋坊へ行く道の両側にある店舗
波飛沫舞う東尋坊
東尋坊から見た雄島 雄島には、日本遺産「大湊神社」があります。
大雨の中、走って駐車場に戻りましたが、ズボンはびっしょり濡れてしまいました。バスの中では、着替える事もできず、余分のコートで温めながら「恐竜博物館」まで我慢のひと時でした。福井県立恐竜博物館エントランスから見た博物館内部風景早速、恐竜化石などを見に行きました。
恐竜化石動く恐竜を見る子供たち
恐竜を見に来た幼稚園児恐竜化石と復元物
展示品を観察する人たち
その他の化石
ウミユリ三葉虫リツイリス リイユ
恐竜博物館を見学した後、駐車場に戻りました。その時、幸運にも山側に虹が架かっていました。恐竜博物館で「虹」を見た後、次の訪問地「白山・平泉寺」に向いました。今回どうしても訪れたかった寺院で、日本史で習った平泉寺の僧兵が頭に焼き付いています。どんなところか?興味津々で、バスに乗り込みました。
途中風景
越前大仏
勝山市の大師山清水寺にある大仏です。そのモデルは、仏教伝来のルーツである中国・河南省洛陽市郊外の龍門石窟のなかにある座像といわれ、身の丈17mで奈良の大仏約15mを凌ぐ大きさだそうです。銅製で総重量200t、大仏の両脇には羅漢像と菩薩像が脇侍仏として安置されているとのこと。
車窓から見るだけでしたが、その巨大な建物に瞠目しました。
勝山城博物館
勝山市平泉寺町にある天守閣風建築物の博物館です。天守風の建物の高さは、約58mで日本一だそうです。姫路城天守に似せたコンクリート製模擬天守で、二の丸や三の丸、馬出などの曲輪はありませんが、塀や城門は重厚な造りになっているそうです。平泉寺白山神社
当社は、養老元年(717)に泰澄大師によって創建されたと伝えられています。白山信仰の拠点となった平泉寺は、平安後期には、天台宗比叡山延暦寺の末寺として発展し、室町・戦国時代に最盛期を迎えました。当時、48社、36堂、6,000の坊院が建ち並び、8,000人の僧兵がいたと伝えられています。しかし、天正二年(1574)に越前一向一揆勢に攻められ、全山焼失しました。その後、顕海僧正が再建し、江戸時代から今日に至るまで、人々の信仰と庇護を受けてきました。境内は、白山国立公園特別指定区域内に位置し、広大な敷地を有し拝殿へ続く石畳の両側の樹木とその間に広がる、見事な苔は圧巻です。因みに、現在の敷地は、全盛期のたった1/10しかないそうです。
駐車場脇のお休み処 見事に実った柿が印象的でした。
平泉寺の境内地図参道周辺の風景旧玄成院庭園の玄関一の鳥居
御手洗池
二の鳥居 独特な形状をした「破風鳥居」です。 鳥居の奥に拝殿が見えます。
扁額「白山三所大権現」
拝殿前の見事な「苔の絨毯」拝殿拝殿の扁額「中宮平泉寺」本社本殿前の阿形狛犬三社 手前が「別山者」、中央が「本社」、一番奥が「越南知社」です。
更に奥にある三之宮を目指しました。
三之宮の参道参道の石段 石段の奥に「三之宮」が見えます。
参道脇の風景
泰澄大師を祀る開山堂大楠公墓塔三之宮 御祭神は栲幡千々比賣ですが、現在は安産の神として信仰されています。帰路の風景
苔絨毯越の拝殿泰澄大師を祀る開山堂
駐車場近くで見た「雪囲い」
平泉寺白山神社の参拝を終え、九頭竜湖に向いました。途中、九頭竜湖駅に立ち寄り、駅周辺を散策しました。
九頭竜湖駅 この駅は、福井県大野市朝日にあるJR西日本の九頭竜線(越美北線)の終着駅です。駅のホームや駅前には恐竜の絵やモニュメントがありました。駅に描かれた恐竜たち九頭竜湖「夢のかけ橋」
九頭竜湖に架かる全長266mの橋で、正式な名称は「箱ヶ瀬橋」というそうです。本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」の試作品(プロトタイプ)として、1967年11月に建設されたものです。
五木ひろしの歌「九頭竜川」 五木ひろしは、福井県三方郡美浜町出身で、故郷を流れる九頭竜川を歌ったものです。その歌碑がここに建てられていました。
九頭竜湖「夢のかけ橋」を見た後、本日の夕食会場である大野市明倫町にある古民家レストラン「茶屋おがまち」に向いました。
以上で、ブログ「越前の旅(その2)」を終わります。引き続き「越前の旅(その3)」をご覧下さい。
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2023年11月 越前の旅(その1)
http://mdavinci.exblog.jp/33195818/
2023-12-21T19:57:00+09:00
2023-12-26T11:30:15+09:00
2023-12-21T19:57:29+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
《旅行日程》
11月19日(日) 東京駅(はくたか557)-金沢駅(しらさぎ60)-福井駅ー永平寺ー一乗谷朝倉氏遺跡 宿泊先「三国オーシャンリゾート&ホテル」
11月20日(月) ホテルー東尋坊ー恐竜博物館ー平泉寺ー九頭竜湖・夢のかけ橋ー星空観察 宿泊先「ホテルハーヴェスト スキージャム勝山」
11月21日(火) ロッジー福井鉄道乗車(神明駅~北府駅)北府駅ー敦賀・日本海さかなまちー紫式部公園ー越前そばー福井駅(サンダーバード31)-金沢駅(かがやき516)-東京駅
《写真集》
11月19日(日)
東京駅
金沢行き「はくたか」 東京駅発9時32分車内販売用物品を新幹線に積み込む人たち 東海道新幹線では車内販売は終了しましたが、北陸新幹線では車内販売は行われています。車窓風景
浅間山信州・上田城址日本海 糸魚川付近で初めて見えた日本海黒部川 奥に聳えているのが北アルプスの山脈のようです。名水の里・黒部常願寺川富山駅神通川光芒の風景 金沢駅で新幹線から特急「しらさぎ」に乗換え、福井駅に向いました。その間で遭遇した光芒風景です。手前に見えるのが、来年3月16日に開通予定の金沢―敦賀間の新幹線の高架橋です。福井駅のホームで撮影した特急「しらさぎ60」福井駅に掲示されていた北陸新幹線計画図福井駅 駅ビルに現れた恐竜福井駅でバスに乗り替え、永平寺に向いました。
永平寺
この寺は、寛元二年(1244)に道元禅師によって開かれた座禅修行の道場で、四方を山に囲まれた深山幽谷の地に大小七十余りの建物が並んでいます。道元禅師は、正治二年(1200) 京都に誕生、十四歳の時に比叡山にて出家し、二十四歳の春に生涯の師を求めて中国に渡ったと言われています。中国では天童山如浄禅師のもと、厳しい修行に励まれ「正伝の仏法」を受け継がれました。二十八歳の時、京都・深草に興聖寺を建立し、その後、波多野義重公の要請もあり、越前の国(福井県)に移られ永平寺を開かれたそうです。寺院の建物を「伽藍」と呼びますが、この寺でも主要な伽藍として、法堂、仏殿、僧堂、庫院、山門、東司、浴室があり、これらを称して「七堂伽藍」と呼んでいます。
境内案内図
永平寺へ続く参道商店街永平寺の龍門参道風景
勅使門(唐門)通用門前にある手水舎永平寺の建物群
通用門の扁額
納経塔
祠堂殿
吉祥閣の通路傘松閣の内部風景および天井絵正面にかけられた達磨の顔廊下を往来する修行僧僧堂への石段と登廊下
中雀門
山門
仏殿
僧堂承陽門承陽殿、鐘楼、承陽門承陽殿
大香炉の清掃中の修行僧
大香炉の紋章
承陽殿の彫刻
承陽殿の内部風景
法堂
法堂前の紅葉光明蔵
妙高台瑞雲閣大庫院長い下り廻廊を降りる修行僧鐘楼と大杉群山門の四天王像
持国天と多聞天広目天と増長天多聞天山門から見た中雀門山門から見た通用門永平寺の見学を終え、次の目的地「一乗谷朝倉氏遺跡」に向いました。一乗谷朝倉氏遺跡へ向かう途中庫風景 道中、山に雲が懸かり、幻想的な景色を見ることが出来ました。一乗谷朝倉氏遺跡朝倉氏は但馬国朝倉庄出身の武士ですが、南北朝時代に越前に入国し、越前朝倉氏の歴史が始まったそうです。応仁の乱を契機に越前国を治める戦国大名になり、以後五代100余年の治政を保ちました。初代孝景は、一乗谷に重臣を集住させ、能力登用や人材育成に努力したそうです。5代義景は、のちの15代室町将軍・足利義昭を一乗谷の安養寺に向い入れ、朝倉館で盛大にもてなしますが、義昭を奉じて上洛することはありませんでした。天正元年(1573)に織田信長との戦いに敗れ、朝倉氏は滅亡し、一乗谷の城下町も灰燼に帰したと言われています。当遺跡は、その後再開発されることもなく、戦国時代の城下町がそっくりそのまま残されましおた。その後、発掘作業・復元作業が行われ、朝倉当主の館跡をはじめ、武家屋敷や道路などの街並みが部分的に復元されています。我々は、その復元された街並みや武家屋敷などを見学しました。
一乗谷城下町の街並み
復原街並みは、約200mに亘る、道路に面して整然とならんでいます。発掘調査で見つかった塀の石垣や建物の礎石をそのまま使用し、出土品に基づいて忠実に再現されているそうです。武家屋敷は周囲に土塀を巡らし、道路に面して門を構え、屋敷内には多くの建物が建っています。
薬医門 この門構えは、上級武家屋敷に採用されていたそうです。
上級武家屋敷跡 この場所は、上級武家屋敷が建てられた地区で、広大な敷地が与えられていたようです。
薬医門薬医門から見た屋敷跡
屋敷内に残る石組
中級武家屋敷跡主殿井戸
便所
日本で初めてトイレが確認されたのが一乗谷だそうです。トイレと考えられる穴は沢山見つかっていましたが、「金隠し」が出土したことで裏付けられました。
倉庫として使用された「蔵」敷地内の井戸と使用人用家屋主殿内部の風景町屋群の商家
入口の石橋 この家では焼物の商いをしていたようです。観光客が踏んでいる石は、昔のままの位置にあった溝に架かった石橋だそうです。
室内に飾られていた二体の人形
室内から見た家屋の入口と土間に掘られた井戸
遺跡内に飾られていた和傘、提灯、風鈴一乗谷朝倉氏遺跡博物館博物館などの展示品
朝倉氏五代栄華の跡 一乗谷一乗谷の街並み(復元模型)全体風景
上級武士の邸宅中流武士の邸宅
一乗谷で撮影されたソフトバンク P R ポスター
一乗谷朝倉氏遺跡を見た後、福井県坂井市三国町にある、本日の宿「三国オーシャンリゾート&ホテル」に向いました。今回は、当主館地区の見学は、時間の制約で出来ませんでしたが、もう一度訪れ、じっくり見学したいと思っています。因みに、昭和46年に国の特別史跡に指定され、平成3年には遺跡内の4つの庭園が国の特別名勝に指定されました。平成19年には、遺跡から発掘された出土品2,343点が国の重要文化財に指定されたそうです。
以上で「越前の旅(その1)」を終わります。引き続き「越前の旅(2)」をご覧下さい。
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2023年10月 瀬戸内海 11島めぐりの旅(その3)
http://mdavinci.exblog.jp/33164891/
2023-12-03T19:59:00+09:00
2023-12-05T16:21:04+09:00
2023-12-03T19:59:15+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
江田島荘
部屋からの眺望 潮が引いた時にだけ現れる船霊社へと続く「ネイビーロード(群青の径)」だそうです。この二つの島は、もともと一つの島だったそうですが、戦時中の空襲で二つに分かれたと言われています。
16時02分 この時間帯は、歩いて渡れることができました。
17時08分 潮が満ちてきて、島へ渡る道が隠れてしまいました。17時31分 二つの島の間の道も満ち潮で遮断されつつあります。周辺の風景
海釣り公園と牡蠣の養殖場象の鼻のような桟橋夕食のメニュー夕食後、海辺へ散歩に出掛けました。夜釣りの風景海辺の夜景10月14日(土) 本日は、江田島「切串港」からフェリーで広島(宇品)港に渡り、そのまま安芸「宮島」に行き、嚴島神社、五重塔、千畳閣などを散策します。
江田島荘から見た夜明け前および朝の風景
6時07分
8時14分
牡蠣の養殖場 朝早くから作業をしているようですね!筏上には多くの帆立貝の殻が置かれているのが確認できます。江田島荘の朝食メニュー江田島荘を出発し、江田島「切串港」に向いました。切串港は江田島市江田島町にあるフェリー乗り場です。
車窓風景堆く積まれた帆立貝の殻
切串港桟橋の釣人たち 御夫婦で釣りに来られているようで、見事!黒鯛を釣り上げていました。切串港に接近するフェリーフェリーからの眺望
出港直後の景色
途中ですれ違った船
牡蠣養殖場で作業する漁師
広島港に停泊する2隻の豪華客船
広島港入口風景 紅白の目印が印象的で、シャッターを切りました。
広島港に到着後、安芸「宮島」に直行しました。
厳島(通称:宮島)は、広島湾に浮かぶ小さな島で、森林や古い神社仏閣など知られており、「日本三景」の一つに数えられています。沖合に立つ壮大な朱色の大鳥居へは、干潮時になると歩いて渡ることが出来ます。宮島の名物は、鹿と紅葉と杓子およびもみじ饅頭と言われております。
JR西日本宮島フェリー乗り場
フェリーからの風景宮島に到着しました。これから大鳥居を眺めながら、嚴島神社に向います。覗き穴から見た大鳥居参道周辺の風景
大しゃもじを飾った店「ミヤトヨ本店」参道風景参道から見た大鳥居 この時点では満潮状態でした。大鳥居周辺を周遊する「櫓櫂船」が、優雅に観光客を運んでいました。大鳥居の扁額に描かれた文字は、沖側「嚴島神社」、社殿側「伊都岐島神社」だそうです。この写真は「伊都岐島神社」です。
参拝入口付近から見た「火焼前(ひたさき)」風景
国宝「嚴島神社」
広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社で、古くは「伊都岐島神社」とも記されました。全国に約500社ある嚴島神社の総本社であります。1996年12月にユネスコの世界遺産に「嚴島神社」として登録されました。社伝では、推古天皇元年(593) 当地方の有力豪族・佐伯鞍識が社殿造営の信託を受け、勅許を得て市杵島姫命を祀る社殿を創建したことが始まりと伝えられております。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたとする説もあるようです。平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守・平清盛の結びつきを契機に、平家一族から崇敬を受け、仁安3年(1168)頃、平清盛が社殿を造営し、現在と同程度の大規模な社殿が整えられたようです。その後、社勢は衰退しましたが、戦国時代「厳島の戦い」で勝利を収めた毛利元就が、嚴島神社を崇敬し、大掛かりな社殿修復を行いました。その後、豊臣秀吉も九州遠征の途上に嚴島神社に参拝し、千畳閣の造営を行ったと言われています。
阿形・吽形狛犬
石燈籠越に見た五重塔能舞台反橋嚴島神社の参拝を終え、昼食を摂るため一旦「だいこん屋」に戻りました。本日の昼食は「あなご御膳」でした。我が家にとって、宮島口にある創業明治34年の「あなごめし うえの」の美味しい穴子は今でも忘れられません!
戻る途中の風景
大願寺 この寺は、日本三大弁財天として有名な神社だそうです。開運・商売繁盛・芸術の窯として御利益があるといわれています。
嚴島神社の社殿越に見た五重塔
後白河法皇御幸松 承安4年(1174)に後白河法皇が参詣された折お手植えされた松の遺木で、明治初期に切り倒されたそうです。三翁神社 嚴島神社の摂社だそうです。創建年代は不詳ですが、平安時代末期には創建されていたと考えられます。
トンネルの出口にあったカーブミラーの映り込み昼食後、高台にある「五重塔」「千畳閣」および「宮島交流館」を見に石段を登りました。
宮島交流館
入口に置かれた大杓子展望台からの風景
五重塔と千畳閣宮島を往復する連絡船
五重塔
この五重塔は、国の重要文化財に指定されています。高さは27.6mあります。室町時代の応永14年(1407)んp創建と言われ、和様と唐様が融合した優美な五重塔です。千畳閣の脇に聳えています。もともと大聖院の支院にあたる金剛院の五重塔でしたが、明治の廃仏毀釈時、神仏分離の嵐の中で厳島神社の管理に移されたそうです。何度も補修工事を行いましたが、未だに室町時代の姿をとどめています。
五重塔の前に植えられている蘇鉄の根元千畳閣(豊国神社)
豊臣秀吉が、千部経を読誦するために天正15年(1587)に発願し、安国寺恵瓊に命じ建立した本瓦葺き入母屋造の大経堂です。秀吉が亡くなったため、天井の板張りや建物の外構など完成を見ることはなく、現在に至っているそうです。1996年に世界文化遺産「嚴島神社」の構成資産として、五重塔とともに登録されました。正式には「豊国神社」ですが、畳857枚の広さがあることから「千畳閣」よばれるようになったようです。
入口風景
内部風景大鳥居の扁額「伊都岐島神社」
各種の絵馬床板の木目 動物の顔などに見える模様を探してカメラに収めました。補修された床板 古い板を補修しながら利用し続けていることにも感銘しました。千畳閣からの眺望
千畳閣を見た後、もう一度大鳥居を見に行きました。かなり潮が引いてきており、多くの人が干潟に下りていました。
この後、フェリー乗り場に移動しました。その途中、商店街の路上で「餅つき」をしていましたので、その様子をカメラに収めました。
「餅つき」風景フェリー乗り場に飾られていた「杓子神輿」帰りのフェリーから見た宮島の風景
大鳥居周辺風景 潮が引いて、大鳥居の周りに多くの観光客が集まっていました。
五重塔と千畳閣
宮島を堪能した後、広島空港に向い帰路に就きました。
以上で、ブログ「瀬戸内海11島めぐりの旅」を終了します。最後までご覧頂きありがとうございました。心から感謝いたします。
私の中学の修学旅行は「宮島」でした。その時は、鹿が多くいたような印象が強いのですが、今回は随分少なかったように思いました。
いずれにせよ、毎回行く度ごとに新しい発見があり、常に「好奇心」を満足させてくれます。これだから、「旅」は止められません!
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2023年10月 瀬戸内海 11島めぐりの旅(その2)
http://mdavinci.exblog.jp/33163144/
2023-12-01T18:05:00+09:00
2023-12-05T15:53:19+09:00
2023-12-01T18:05:21+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
10月13日(金)
夜明け前の風景
大崎上島の日の出の景色をカメラに収めようと思い、早起きして近くの「中ノ鼻燈台」に出掛けました。幸運なことに天気にも恵まれ、満足いく夜明け前の風景を撮影することが出来ました。この燈台は、瀬戸内海の海上交通を守る九つの燈台の一つだそうです。円形石造りの燈塔は明治時代当時のままとのこと。東の空には、「眉月」と「夜明の明星」が輝いていました。
周りの風景日の出前、移り変わる空の景色
日の出風景日の出後の周辺の風景朝食を摂った後、大崎下島へフェリーで渡ります。この島には、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「御手洗(みたらい)」の街並みを散策する予定です。以前からこの島を訪れたいと思っていましたが、今回やっとこの目で確かめることが出来るので、いまから楽しみです。
大崎上島「明石港」飛翔するアオサギ
桟橋で釣りをしていた人たち 黒鯛を釣り上げていました。
フェリー入港明石港でフェリーに乗船するバスフェリー上で撮影した風景大崎下島「小長(おちょう)港」に到着
我々が乗船したフェリー
大崎下島「小長港」に上陸した後、早速「重伝建・御手洗」の街並み散策に出掛けました。
重要伝統的建造物群保存地区「御手洗」
みたらい散策絵図若胡子屋敷跡
江戸時代、享保9年(1724)に広島藩の免許を受けた御茶屋(遊郭)の跡だそうです。一説には、百人以上の遊女がいたと言われています。往時を留める奥座敷は、屋久杉を使った贅沢な造りになっているそうです。
御手洗郵便局
新光時計店
昭和レトロ的は街並み
玄関先で蜜柑を売っている家乙女座
昭和12年、御手洗の文化交流のためにと町長が私財を投じて建設した劇場だそうです。戦後は映画館として親しまれていましたが、昭和40年代半ばに廃業したそうです。平成14年に復元されました。
薩摩藩船宿跡「脇屋」
越智醫院
満舟寺
平安時代、平清盛が行基作の十一面観音像を安置したと言われる古刹です。石垣は、戦国時代の城跡で市の文化財に指定されているそうです。境内には俳人・栗田樗堂の墓や芭蕉塚などもあります。また、この地に寄港した江戸上りの琉球使節団に同行した中山楽師梁光地により揮毫された扁額が残されています。粟田樗堂の墓碑 樗堂(ちょどう)は、江戸時代中期・後期の俳人です。正岡子規が「過去四国一の俳人」と称賛したことでも知られています。寛延2年(1749)に松山城下の酒造家に生まれました。二度にわたって小林一茶の来訪を受けるなど伊予俳諧の中心的存在だったそうです。なごみ亭鞆田家住宅村尾昌文堂元大洲藩・宇和島藩船宿(村井・大村・北側家住宅)
切妻造り、本瓦葺き、平入構造の三軒長屋だそうですが、建築年代は江戸・文政時代より少し下がった時期ではないかと言われています。
御手洗駐在所仕切弁の蓋
高燈籠と住吉神社
住吉神社は、広島藩が築いた大防波堤「千波子波止」の鎮守として、文政13年(1830)に大阪の豪商鴻池が本殿を寄進したものです。一方、高燈籠は、庄屋金子忠佐衛門が同じく寄進したものと言われています。
高灯籠の下で会話中の住民と猫路地裏風景御手洗の散策を終え、次の目的地である豊島「あび資料展示室」に向かいました。
あび資料展示室
アビ漁(イカリ漁)とは鳥のアビと漁師が一体となって、魚を捕まえる世界でも珍しい伝統漁法だそうです。鵜飼などとは全く違った漁法で、興味津々で説明に聴き入りました。
鳥のアビアビ漁の説明アビ資料展示室を後に、つぎの訪問地に向いました。次は、上蒲刈島の仏ヶ崎展望台です。
仏ヶ崎展望台へ行く途中の風景
彼岸花ランタナに蜜を吸いに来たホウジャク ホウジャクは、スズメガの仲間ですが、ホバリングしながら蜜を吸うことが出来ます。仏ヶ崎展望台からの眺望
蒲刈大橋 呉市の上蒲刈島と下蒲刈島を結ぶ道路橋です。1979年10月に開通したトラス構造の農道橋で、橋長 480m、全幅 8m、海面からの高さ 23mです。急潮でも名高い「三ノ瀬瀬戸」に架けられた橋です。
三ノ瀬瀬戸の潮流仏ヶ崎展望台で、瀬戸内の島々を堪能した後、蒲刈大橋を渡って直ぐのところにある下蒲刈島の「松濤園」を訪れました。
松濤園
松濤園のある下蒲刈島は、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えた町で、江戸時代には善隣友好の使節団である朝鮮通信使が12回来日したうち、11回立ち寄ったと言われる歴史と伝統のある由緒ある町です。全島庭園化事業の一環として整備されたこのゾーンを「松濤園」と名付けたそうです。「朝鮮通信使資料館」は砺波地方の商家を、「あかりの館」は山口県上関町の商家を、「陶磁器館」は宮島の町家を移築復元しました。海上交通に重要な役目を果たした「御番所」も復元されていました。松濤園の入口入口の庭園に並ぶ「石人」たち
朝鮮通信使資料館と使節団の模型船 この建物は、富山県砺波地方の代表的商家造りである「旧有川邸」を移築復元したものです。
陶磁器館 この建物は、広島県宮島町の町屋「旧木上邸」を移築復元したものです。
展示室 様々な陶磁器は勿論、観潮楼茶室や露地など見るべきものが多くありました。
古九谷柿右衛門露地観潮楼の二階から見た風景 この部屋からの眺めは素晴らしく、三ノ瀬瀬戸の潮流や蒲刈大橋を見ることができました。館内風景
復元された「蒲刈島御番所」
高札場旧吉田邸「あかりの館」松濤館の館内風景松濤館を見学した後、音戸の瀬戸展望台にバスを走らせました。途中、呉市を通りましたが、車窓から幾つかの風景をカメラに収めました。
戦艦大和のふるさと
戦艦大和は、広島県呉市の海軍工廠で造られた巨大戦艦です。現在は造船会社「ジャパンマリンユナイテッド」の工場になっています。埋立られた建造現場のドック跡に当時から残る大屋根の上屋がこれです。この海軍工廠は、何度も空襲に遭っています。この建物が残ったことは奇跡だといわれています。
呉港に停泊する潜水艦や護衛艦操業を停止した日本製鉄呉製鉄所の高炉音戸の瀬戸展望台
音戸の瀬戸は、広島県の呉市にある本州と倉橋島の間にある海峡で、南北方向に伸びる約1000mの海峡です。二つの橋が架けられており、最初に架けられた橋が「音戸大橋」、後で架けられたのが「第二音戸大橋」です。われわれは、第二音戸大橋の袂で下車し、周辺の風景を楽しみました。
「第二音戸大橋」「第二音戸大橋」から見た「音戸大橋」呉市方面の風景眼下に見えた神社見上げた倉橋島の空音戸の瀬戸展望台を散策した後、本日の宿「江田島荘」に向いました。江田島荘は、江田島市能美町にあります。
以上で「瀬戸内海11島めぐりの旅(その2)」を終わります。引き続き「瀬戸内海11島めぐりの旅(その3)」をご覧下さい。
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2023年10月 瀬戸内海 11島めぐりの旅(その1)
http://mdavinci.exblog.jp/33162072/
2023-11-30T11:41:00+09:00
2023-12-05T15:46:15+09:00
2023-11-30T11:41:44+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
《旅行日程》
10月12日(木) 羽田空港ー広島空港ー生口島「向上寺」ー大三島「多々羅しまなみ公園」ー大島「亀老山展望公園」ー大三島「大山祇神社」ー大三島「宗方港」ー大崎上島「木江港」 宿泊先「きのえ温泉 清風館」
10月13日(金) 大崎上島「明石港」ー大崎下島「小長港」ー重要伝統的建造物群「御手洗」ー豊島「あび資料展示館」ー上蒲刈島「仏ヶ崎展望台」ー下蒲刈島「松濤園」ー音戸の瀬戸展望台―江田島 宿泊先「江田島荘」
10月14日(土) 江田島「切串港」ー広島「宇品港」ー宮島「厳島神社」ー広島空港ー羽田空港
《写真集》
10月12日(木)
羽田空港機窓風景
レインボーブリッジスカイツリー富士山琵琶湖京都御所と下鴨神社小豆島広島空港近傍の山間の村広島空港広島空港に着陸後、本日の最初の訪問地である生口島「向上寺」に向いました。
生口島「向上寺」
この寺は、急な坂道を上った丘の上にあります。室町時代初期に建立された歴史ある寺で、三重塔は国宝に指定されています。また、戦時中の供出を免れた広島県指定重要文化財の梵鐘もあるそうです。三重塔は、永享4年(1432)に建立され、文安元年(1444)には将軍・足利義政の祈願所にもなったそうです。
国宝・三重塔本堂鐘楼境内に祀られていた石仏向上寺を参拝した後、大三島「多々羅しまなみ公園」に向いました。生口島と大三島を結ぶ多々羅大橋を渡ると直ぐのところにありました。多々羅大橋この橋は、尾道市生口島と今治市大三島を繋ぐ道路橋です。本州と四国を結ぶしまなみ海道を構成しています。中央支間長は890mで、完成時では世界最長の斜張橋でした。公園内には「サイクリストの聖地」の記念碑があり、県内外を問わず多くのサイクリストの巡礼地としても人気を博しているそうです。「多々羅しまなみ公園」から見た「多々羅大橋」多々羅しまなみ公園多々羅しまなみ公園で昼食を摂り、のんびり休息した後、次の目的地である大島「亀老山展望公園」にバスを走らせました。
亀老山展望公園
大島の南端に位置する標高301mの亀老山の山頂にある展望台です。隈研吾氏の設計で知られるパノラマ展望台ブリッジからは、世界初三連吊り橋「来島海峡大橋」と日本三急潮の一つ「来島海峡」の潮流、晴れた日には四国・石鎚山や今治城も眺めることが出来ます。
亀の石像亀老山展望台展望台からの眺望大三島「大山祇神社」
日本総鎮守 大山祇神社 由緒
総門および扁額
総門の左右に祀られている神像 戦いの神として崇敬を集めている大山祇神社らしく、武具を纏っています。向って右手の神像は刀を抜き、左手の神像は弓矢を構えています。こんな姿の神像を見るのは初めてで珍しいのではと思います。
御桟敷殿
阿形・吽形狛犬
天然記念物「大楠」
大三島に祖神・大山祇大神を祀った「乎知命(おちのみこと)お手植の楠」と言われ、樹齢2600年を数え、御神木として崇められています。この神社には多くの楠の老樹があり、歴史の重みを感じることが出来ました。
神門拝殿本殿本殿と下津社
上津社神輿庫十七神社河野通有「兜懸けの楠」一遍上人の宝篋印塔
一遍上人は、鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖として知られています。全国各地で、「念仏札」を渡し、踊りながら南無阿弥陀仏を唱える「踊り念仏」をおこなったといわれています。1221年「承久の乱」により没落した伊予の豪族・河野通広の次男として1239年に生まれました。
宝物殿入口 時間の余裕がなく、宝物殿の見学は断念しました。鶴姫像
鶴姫は、戦国時代に伊予にいたとされる女性です。瀬戸内海の大三島を守るために、三島水軍の女武将として活躍した大祝鶴姫といわれており、瀬戸内のジャンヌダルクとも言われています。日本で唯一現存する女性用の鎧「紺糸裾素懸威胴丸」は、鶴姫の愛用したものではといわれています。ロマンがありますね!
散策時見つけたマンホール蓋道の駅「御島」に戻り、大山祇神社境内外に巨大楠「生樹の御門」があるというので、集合時間が差し迫る中、走って見に行きました。
生樹の御門
大山祇神社の「奥の院」の参道にある巨大な老楠です。樹齢3000年とも言われ、根周りは約30mもあるそうです。幹の根元に開いた自然の空洞を門に見立て、それを潜って奥の院に参拝していたことから「生樹の御門」と呼ばれるようになったそうです。その神秘的な姿に感動し、来た甲斐があったと思いました。この老楠を見た後、ふたたび走ってバス駐車場に戻り、本日の宿泊地である大崎上島の「きのえ温泉 清風館」に向いました。大三島から大崎上島へ行くには橋がありませんので、大三島「宗方港」から大崎上島「木江(きのえ)港」へフェリーで渡ることになります。
宗方港
航路案内図
宗方港から見える瀬戸の島々
桟橋越に耀く海
木江港行きフェリー
フェリーに乗船したバスフェリーから見た風景
フェリーの床に映る影
大崎上島「かもめ館」 この建物は、竜宮城をイメージしてつくられた建物だそうで、芸能育成・発表の場として活用されているとのこと。また、神峰山の登山口でもあるそうです。非常にド派手で印象に残る建物でした。
大崎上島「佐々木造船所」ホテル清風館フェリーから見えた「来島海峡大橋」
木江港で下車し、清風館に向いました。
ホテル清風館からの眺望
眼前の三角形の島は「大下島」、左の島が「柏島」、二つの島の奥に見える小さな島が「肥島」です。
小島の奥に来島海峡大橋が見えます。
弓張岩夕暮れの風景以上で、「瀬戸内海11島めぐりの旅(その1)」を終わります。引き続き「瀬戸内海11島めぐりの旅(その2)」をご覧ください。
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2023年9月 伊良湖岬、鳥羽・伊勢、犬山の旅(その4)
http://mdavinci.exblog.jp/33151427/
2023-11-16T20:17:00+09:00
2023-11-18T10:00:58+09:00
2023-11-16T20:17:20+09:00
mda-vinci
国内旅行・散策
9月27日(水) 本日は、午前中に犬山城をじっくり見学した後、岡崎城、蒲郡・竹島を散策し、JR豊橋駅から新幹線で帰途に着きます。
犬山の夜明けホテルの朝景朝食後、国宝「犬山城」を見に出掛けました。犬山城に行く途中、国宝の茶室「如庵」のある有楽苑の垣根に沿って進むことになります。残念なことに本日は休館日で有楽苑は見ることが出来ませんでした。
有楽苑の玄関と唐門(旧徳源寺唐門)犬山城に隣接する針綱神社
針綱神社は、犬山城の守護神として信仰を集め、濃尾の総鎮守とされています。織田信長の叔父・織田信康が手彫りの犬を奉納して安産、延命長寿を祈願したことから、安産や子授け、長寿の御利益があると広く知られている神社だそうです。
可愛らしい神馬
犬山城
国宝「犬山城」は、室町時代の天文6年(1537年)に織田信長の叔父・信康が築城したものです。天守は、現存する日本最古のものです。扇状地である濃尾平野の要に位置し、天守最上階からの眺めはまさに絶景の一言です。周辺には木曽川や犬山城下町の古い町並みがあります。天守構造は、望楼型・三重四階の複合式天守で「白帝城」とも呼ばれています。
城内風景上段の間と武者隠し
城内に展示された「国宝城」 右から松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城 以上5つの城です。
天守最上階からの眺望最上階の花灯窓
木曽川眼下に見える「ホテル インディゴ 犬山」
本丸鉄門(正面)と小銃櫓台(右奥)
犬山城の瓦屋根飾り瓦「桃」 桃は「魔除け・厄除け」の効果があると言われています。犬山城を見学した後、ホテルに戻りました。その途中で、赤い建物が見えたので立ち寄ってみました。
三光稲荷神社
城山の山頂には国宝・犬山城があり、城山の麓にはこの歴史ある神社があります。重なり合う赤い鳥居が印象的です。毎年7月22日には、赤い提灯を持って参拝する風習があるそうです。
帰り道で見た酔芙蓉の花マンホール蓋出発まで少し時間があったので、木曽川の河原を散策しました。蝶や虻や飛蝗等を発見しました。この周辺には、まだ昆虫が多く生息しているようですね!
群れて水を飲むキチョウアオメアブ飛蝗木曽川周辺の風景
ホテルを出発し、次の訪問地「岡崎城」に向いました。
岡崎城
岡崎城は、徳川家康が生まれた、神君出生の城です。龍にまつわる伝説も多く、別名「龍ヶ城」とも呼ばれているそうです。竹千代が生まれた折には、城の上に黒雲が渦巻き、黄金の龍が現れたと伝えられています。1959年に再建された3層5階の復興天守閣は、岡崎のシンボルとして市民に親しまれています。2006年には「日本100名城」に選定されました。
大手門
城内の「からくり時計」本多平八郎忠勝像大河ドラマ館岡崎城岡崎城内風景最上階からの眺望本丸茶屋方面
八丁味噌蔵方面
龍城神社龍城神社越に見た岡崎城本丸茶屋と出世団子徳川家康像と竹千代像「家康公遺言」碑家康公「人生訓」
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つことばかり知りて、負けること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。岡崎城を後に、本日の最終目的地「竹島」に向いました。
竹島
蒲郡のシンボル的存在です。竹島は長さ387mの橋で陸地と結ばれ、島の中央には開運・安産・縁結びの神様を祀る「八百富神社(竹島弁財天)」があります。この島は独自の植物体系を持っており、その特異性から島全体が国の天然記念物に指定されています。子供が小さかった頃、祖父母とこの地を訪れたことがあり、潮干狩りで沢山のアサリをとったのを鮮明に覚えています。
竹島周辺観光案内図竹島橋蒲郡クラシックホテル三河湾に浮かぶ三河大島と三河小島竹島の風景八百富神社の鳥居八百富神社境内図
高台から見た竹島橋宇賀神社大黒神社千歳神社八百富神社(竹島弁財天)八大龍神社龍神岬島を巡る海辺の径竹島橋を元に戻ると、八百富神社の遥拝所と藤原俊成像のある公園がありました。
篠津遥拝所
境内の冷泉為系伯歌碑 「竹志まの 緑ひさしく茂らなむ 宇ゑにしひとの 其の名もろとも」 藤原俊成卿のご子孫である冷泉家22代当主の詠まれた歌です。藤原俊成像
どうしてこんな所に藤原俊成像があるのか?非常に疑問に思いました。理由はこうです!藤原俊成卿が三河国司を務めたことがあるからです。具体的には、久安元年(1145年)12月から同5年(1149)4月までの3年5ヶ月の期間だったそうです。「吾妻鑑」にも荒地だった蒲郡を開発した人物として記されています。竹島弁財天は俊成卿が三河国司の頃、琵琶湖に浮かぶ竹生島から勧請されたものと伝えられています。因みに、竹島にある千歳神社は俊成卿を祭神とする神社で、和歌の神、長壽延命の神(91才で逝去)として信仰を集めています。竹島を後に、JR豊橋駅に向いました。夕暮れが迫る中、バスの車窓から移り行く三河の空をカメラに収めました。
車窓風景
以上で、「伊良湖岬、鳥羽・伊勢、犬山の旅」を終わります。最後までご覧頂きありがとうございました。心から感謝いたします。
今回もいろいろな発見があり、非常に面白く楽しい旅になりました。ブログを纏めながら、多くの事を学ぶことが出来ました。だから「旅」は止められないのです。これからも好奇心の赴くまま、可能な限り旅行を続けたいと思っています。
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